日常生活に見るポストコロナ
2023年も早いもので2か月が過ぎました。
春めいた陽気に猛烈な花粉が舞うこの季節。
政府からも、日常生活におけるマスク解除の動きが出る中、ふと、わが日常においても、コロナウイルスの脅威が遠のいてきたことを意識させられる出来事がありました。
そこはかとなく書き連ねていきます。
会社におけるポストコロナ
コロナ禍以降、会社では各座席の前方には、ダンボール素材の紙とビニールを組み合わせたパーテーションが設置されていました。
多数の社員が感染したこと、パーテーションにより低減される感染リスクの客観性がいまいち判然としなかったことから、社内ではかねて(中高年の管理職層を中心に)不要論が唱えられていました。
感染が一段落しつつあり、またwithコロナの社会的背景もあり、2022秋口〜2023初頭にかけて、部内100名弱に対して、パーテーション設置の是非に関するアンケートが複数回執り行われました。
その結果は、意外なことに、パーテーション撤去に反対の意見が常に多数派を占めていました。
これに不満なのは、中高年の管理職層です。
職場での意思決定に普段から携わり、表立って声を上げることの多い中高の管理職層はこぞって、「そんなはずないでしょう!誰が反対してるの!」と、こぞって反発。
もちろん、職場風土を乱さない範囲で、です。自分の係の部下と会話する体で、特定個人を攻撃しないよう、ベクトルを斜め上にしての発言です。
自分含めた若手層は、総じてパーテーション撤去に反対でした。
話を聞いていると、以下のような理由に収斂されました。
- 単純に感染リスクを恐れている
- 対面を前提とした密なコミュニケーションを取らずとも、チャットや通話による意思疎通は可能と、対コロナ仕様のコミュニケーションに転換できた
- 必要以上に社員間の距離が近くなり、上司や先輩からの圧力が高まることを防止するため
もちろん、在宅ではなく、オフィスに出社してスピード感と頻繁なコミュニケーションをとりながら仕事をしたほうが、仕事は早く進みます。
また、若手の成長という面でも、オフィスで仕事をしたほうが、その仕事の本質に迫れる機会は多く、業務を通じた成長が促進される面もあるでしょう。
(※)ここでいう「成長」は、「オフィスに出社しておじさんチームの中で「検討した感」を出しつつ、根回しを欠かさず漸進的に物事を前に進めていく、当社における日本的な仕事のやり方を学ぶ」ことを指します。ゆえに、企業文化の変容や事業環境の劇的変化に伴い、「成長」の軸が従来とは異なるものになったとき、上記スキルは、無に帰すとまでは言わないまでも、相当部分が減殺されることになるでしょう
どちらが正しいとは言い切れませんが、両者間でのコミュニケーションの欠如は、ゆゆしき事態です。
パーテーション撤去の反対について、「同調圧力に屈してはいけない」などと、根拠不明の理屈を社内で高らかに表明し、堂々と反対していた部長クラスがいました。その非民主性にさすがに辟易してしまいましたが…
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近所の飲食店におけるポストコロナ
行きつけのつけ麺店↓においても、カウンターの横の座席間のパーテーションは残置しつつも、厨房(台)と客席の間のパーテーションは取り払われていました。
元々、感染対策への尺度は、(都内にしては)ものすごく高かった店だけに、その大きな方針転換には少々驚きました。
もっとも、科学的精神に基づき、客観的根拠に則り行われた経営判断でしょうし、その点は最大限尊重されてしかるべきと思います。
客席間のパーティションのみ残した理由ですが、
- 従業員→顧客への感染リスクに比して、
- 顧客 →顧客 への感染リスクの方が高い
ことが要因と思われます。
となれば、上記のように、隣席とのパーティションのみ残置するのは、至極自然な考え方と言えそうです。
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コロナ禍における陰キャ若手会社員の心情・行動
語弊を恐れずに言えば、素性を知らない不特定多数との接触を元来好まない私にとって、コロナ禍の3年弱は、親和的でした。
人混みや多くの音で埋め尽くされる空間には、上京後10年弱を経過してもなお、慣れることができません。
田舎者ののんびりとした気質がこびりついているのか、ここまで来れば、突然都会の喧騒に慣れるということもないでしょう。
ただ、他方で、田舎暮らしの幼少期は、田舎独特の濃密な人間関係というのも、どうにも苦手でした。
プライベートが必要以上に知られること。コミュニティにおける一度の失策がその後の関係に影を落とし、コミュニティ内での自身の立場が危うくなること。
このような田舎気質からは、前向きな思考様式は生じません。社会を前に進めるのではなく、今ある暮らしを永遠に続けていくためにやるべきことに、全精力を注いでいます。
私は、この極端なまでの現状維持気質と、自己成長を微塵も行わない環境を好みませんでした。
田舎者気質と都会気質。
これが絶妙にマッチしていたのが、コロナ禍でした。
外出者が減り満員電車に遭遇する機会が減ったこと、終業後の職場の飲み会がなくなったこと、旅行先は休日でもどこも空いていたこと。
他方、住む人は変わらないので、田舎のような濃密な人間関係もありません。
「在宅勤務」という(私にとって)新しい概念が誕生したことによる余暇の増加は、読書や学習に励む時間を作出し、(自己満足という名の)自己研鑽を積むこともできました。
喧騒から離れて、自己と向き合う時間が増えた日々は、思った以上に快適でした。
弱い紐帯
とはいえ、イノベーションが起き、社会が前に進む瞬間は、人間どうしの絡み合いの中にこそ産まれます。
時に無責任さを内包する都会人の刹那的な人的結び付きは、ある領域では「弱い紐帯の強み」として賞賛されているとおり、少なからぬメリットを産むことがあります。
万事コンサバティブではいけないのです。
意味を取り違えた安易な保守主義、鎖国主義に傾倒してはなりません。齢30にして、耄碌してはならない。
自己研鑽も、「ワイガヤ」も、両立してこそ、経済成長、また、自己成長を生むのです。
どちらかに傾倒しすぎず、常に双方の重要性を念頭に置きながら、生活せねばならないと思った今日この頃であります。